ボツリヌス注射と食中毒のはなし

ボツリヌス注射と食中毒のはなし

近ごろはさまざまな媒体で情報を見ることができる時代となりました。

街を歩けば綺麗な看板が目を引き、インターネットに接続すれば最新の流行をすぐに確認することもできます。

流行に敏感な方の中には、最新の洋服やアクセサリーを検索したり、芸能ニュースやコスメなどのお洒落に興味を持つ方もいるかと思います。

以前からあったものですが、最近では特に身近になったもののひとつに「ボツリヌス注射」があります。

何やら医療の世界でも知られるもののようで、有名人の体験談などを見る機会も増えてきました。

しかしボツリヌス注射とは一体何なのでしょうか。

それではボツリヌスについて、まるで土を掘って行くようにお話を進めていきましょう。

1.腸詰め

皆さんはラテン語という言語をご存じでしょうか。

古代ローマ帝国でも用いられた言語で、古い歴史を持つ言葉のひとつです。

ヨーロッパでも広く使われてきた歴史があります。

さて、ラテン語で botulus という単語。

これは日本語で「ソーセージ」や「腸詰め」という意味になります。

食卓でも一般的なソーセージですが、この botulus を語源にもった細菌(バクテリア)がいます。

Clostridium botulinum という細菌で、このページの主役です。

2.食中毒

古くから人類は、傷んだ食べ物でお腹を壊したり、場合によっては命を落とすことを経験してきました。

19世紀のヨーロッパでは、ソーセージを食べた人の中に重度の食中毒を起こす人がいたようです。

その食べ残しを調べてみると、そこに繁殖していた細菌が見つかりました。

そうして名付けられたものが時代を経て、Clostridium botulinum という名前で現代人にも知られることとなったのです。

以前の呼び方の名残からこの細菌を「ボツリヌス菌」と呼びます。

3.酸素が苦手

ボツリヌス菌は細菌(バクテリア)なので、もちろん肉眼では見えません。

見て確認するときには光学顕微鏡を使えば形を確認することができます。

細菌の世界にはたくさんの種類の細菌がいて、人間と同じく酸素を利用できる細菌や、酸素を利用できない細菌もいます。

ボツリヌス菌は酸素を利用できない上、酸素があると生きられない細菌です。

私たちの感覚からすると不思議に思えますが、酸素が無い環境で生命活動をしています。

彼らにとって酸素は毒ですが、人間にとっては無くてはならないもの。

人間をはじめ、なぜ生命は進化で酸素を利用するようになったのか……そのお話はまた次の機会にしましょう。

ボツリヌス注射と食中毒のはなし

4.腐敗と発酵

はるか昔から人類は、食べ物を放置しておくと傷んで食べられなくなることを知っていました。

味が変わってしまったり、イヤなにおいを発したり。

細菌が食べ物を分解すると、その食べ物は性質を変えることがあります。

おや……?

細菌などが食べ物の性質を変える……?。

ゆでた大豆を藁で包んでおくと納豆になります。

そういえば味噌や醤油も、元の食べ物から形を変えています。

世界中にある“発酵食品”は、まさに細菌などの力を借りて作られていました。

ところで食べ物が傷むことも、発酵して美味しくなることも、細菌などが食べ物を分解した結果です。

腐敗:食べ物が腐ってしまう

発酵:食べ物が美味しくなるなど

この二つはどう違うかといえば「人間にとって有益か害悪か」。

というお話でした。

5.無酸素の世界

私たちが食べる物は保存性を考えられ、そして安全性に長けています。

さまざまな技術によって食中毒の危険性も排除されているといえます。

「食べ物を放置すると傷むなら、空気に触れなければいいじゃないか。」

確かに酸素を利用する細菌も腐敗させるので、この考えは間違いとはいえません。

しかし空気を遮断した世界、たとえば真空パック保存はボツリヌス菌たちの天国ともいえる世界でした。

栄養素がたっぷりあって酸素がない世界は、まさに増殖に最適といえます。

古くは肉の保存も兼ねた腸詰め、近年では真空パック。

こうして空気と触れさせないよう保存した食べ物によってもボツリヌス中毒は報告されています。

ボツリヌス菌の語源はラテン語の腸詰めから来ています。

つまり昔のヨーロッパでは、腸詰めで発生する食中毒として認識されていたのですね。

6.地上最強の毒素

ボツリヌス菌が食中毒を起こす細菌ということを述べました。

食中毒の中でもボツリヌス菌の場合には、細菌が毒素を出して、その毒素が原因で食中毒になるタイプです。

ところがこの毒素が大問題になってきます。

なんとボツリヌス菌の出すボツリヌス毒素は、1g(グラム)で1000万人以上の人が命を落としてしまうほどに強いのです。

凄まじい強さの毒です。

発見されている毒素の中では最強の毒素としても知られます。

もちろんボツリヌス菌は非常に小さいので、私たちから見た1グラムという量はとても彼らが一度に作り出せる量ではありません。

それでも0.0000000……という本当に微量の毒素であっても私たちの命を脅かす毒素なので注意が必要です。

7.筋肉の動き

脳から筋肉を動かす命令が出ると、神経を伝わっていきます。

神経と筋肉のあいだでは“神経伝達物質”というものが放出されて、それをキャッチした筋肉は収縮します。

ボツリヌス毒素は神経伝達物質が放出できなくなるように働きます。

結果的に毒の影響は、筋肉がうまく動かなくなるという形であらわれます。

もし呼吸をするための筋肉が動かなくなれば、命に関わってしまいます。

しかし病気などの原因で、筋肉が勝手に動いてしまったり、強い収縮を繰り返してしまう場合、この毒をうまく使うことはできないでしょうか。

もちろん強すぎる毒ですので、しっかりと安全に使用できる強さへ調整する必要はあります。

そうして人体に使用できるように作られたものが「ボツリヌス注射」なのです。


命に関わる怖い毒も、研究を続けて薬として利用できる人類の力には驚かされますね。

8.まとめ

名前を聞いたことがある方も多い「ボツリヌス注射」。

この項ではボツリヌス注射とボツリヌス菌についてお話をしてきました。

地上最強の毒素とはいうものの、実は毒素が働く筋肉のメカニズムを持っている生物以外には無関係ともいえます。

たまたま人間の持つメカニズムがボツリヌス毒素によって影響を受けたのか、それとも筋肉を持つ生物を狙い撃ちするためにボツリヌス菌が力を持ったのか、それはわかりません。

それでも長い自然の営みの中で、人間とボツリヌス菌との関係はこうなっている。

ただそれだけの話なのかもしれませんね。

まだまだ自然の秘める謎には楽しみが埋まっているようにも思います。

参考文献

監修者からのコメント

内科医

ボツリヌスは神経と筋肉の接合部などの場所に働き、筋肉を緩めてしまう弛緩性(しかんせい)麻痺を引き起こします。重症な場合は眼や発声、呼吸に関わる筋肉など、全身に影響をおこすため致死的になります。ここ20年以上は日本での死亡例はないと言われているので、ひどく恐れることはありませんが、一方で乳児ボツリヌス症には注意する必要があります。免疫力が未成熟な乳児がハチミツの摂取によって発症することがあり、哺乳力の低下や筋力の低下、まぶたが下がってしまう眼瞼下垂などの症状が出ます。そのため1歳未満にはハチミツを与えないことが重要になります。